【長編】 エス-名も無い記憶- 三@souhyouuto


/ / / 三】




//第一章 3



麦の穂が青くきらめく大地の端に、太陽が顔を覗かせた。
光は障害物のない荒野を走り、城壁を登りつめ、スラム街――この国の城がそびえ立つ崖下に作られた、商品としての国民を管理する街――には一瞥もくれず鉄柵にたどり着いた。その影が城を捕らえた頃、僕もようやく窓から差し込んだ朝日で目が覚めた。薄いだけの毛布を跳ねのけて、まだ寝ている同室の子たちを起こさないように部屋を抜け出す。
広場に出て、空を見上げた。今にも崩れそうな建物によって切り取られた空は、今日も天気がよさそうなことを告げていた。

ここに来て、もう何年経っただろう。
元々住んでいた所と同じような環境のせいか、それともここでの時間があまりにも穏やかに過ぎたせいか、僕はここが心地よいと思い始めていた。
朝起きて空を見上げ、後から起きてくる皆と鉄柵内を駆け回り、配給の鐘が鳴れば貰いに行き、それから蒼に文字や計算を教えてもらって、終ればまた遊ぶ。捉え方によっては、中級層の子のような生活ではないのかと思えるだろう。それでも、僕らは鉄柵の中に住んでいる。この腕に番号が彫られた金属の腕輪が付いている限り、ここから出て国の中で普通に暮らすという選択肢は存在しない。
僕はシュウがまだ部屋から出てきていないことを目尻で確認し、顔を洗おうと――一昨日から降り続いた雨がたんまりと溜まっている――壺を覗き込んだ。数匹のアメンボが、澄んだ水面を走っていた。

「そんなあからさまに避けるな」

水に手を入れたのと同時に、後ろからシュウの声がした。僕が慌てて反対側に隠れると、シュウは心底悲しそうな声で「傷付くじゃないか」と呟いた。言われてみれば、弟子の話があった日以降ほとんど言葉を交わしていない。

「なぜ避けるんだ。何も獲って喰おうとはしてないだろう」
「……、だって……嘘かもしれないし」
「魔導師だと言ったことがか?」
「……うん」

本当は、これといった理由はなかった。
ファミリーを欠けさせるシュウが悪者のように見ていたせいかもしれない。それ以前にシュウを、大人を本当に信じられるかどうか迷っていたせいかもしれない。頭の中がぐちゃぐちゃになって黙ってしまうと、シュウは小さくため息を付いた。そして壺を覗き込み、僕に見ているよう言いつけた。僕は恐る恐るシュウの傍に寄り、一緒に空の色を映す水面を覗き込む。ちらりとシュウの顔を見ると、ほっとしたように微笑むのが分かった。
シュウは左手の人差し指にある水色の石がはめ込まれた指輪を撫でて、小さく何かを呟いた。それは聞いたことのある言葉のようでもあったし、知らない音のようでもあった。何をしだすのかとシュウの顔を眺めていると、唐突に顔を水の中に突っ込んだ。アメンボは慌てて空へと逃げていき、白髪は水面に情けなく浮いている。僕は目を丸くしてその行動を見ていたが、何秒経ってもシュウは顔を上げようとしなかった。
太陽も建物を乗り越えて、空から僕らを見下ろし始める。
一体、何分が経過したのだろう。
人間はこんなに水の中で息を止めていられるものなのだろうか……。
一向に顔を上げないシュウが心配になり、その埃っぽいローブを「ねえ、もういいよ」と引っ張った。それが聞こえたのか、シュウはざばりと顔を上げた。長く息をしていなかったから、その老けた顔はきっと色が良くないだろうと思っていたのに、水に付ける前と何ら変わってはいなかった。それどころか、適当に伸ばされた長い髪も髭もまったく濡れてなかったのだ。
シュウは新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、乱れた髪を撫でつけた。

「これで私が魔道師、いや、普通の人間じゃないことが分かっただろう?」

ローブをつかんだまま目をぱちくりさせている僕に、シュウが満足そうに笑った。認めるしかなかったが、どうしてなのかが分からず、シュウの髪や指輪を弄ったりしていた。シュウは僕の気が済むまでしゃがんだまま、バレない悪戯をした子どものように楽しそうな顔をしていた。

「どうして、どうして苦しそうじゃなかったの? 髪もどうやって?」
「答えるのは簡単だ。だが、君が理解するのには時間がかかるんだよ。私がそうだったようにね」
「……僕も、シュウみたいになれる?」

僕のこの言葉を待ち望んでいたように、シュウは僕を強く抱きしめた。「もちろんだ」と何度も何度も言い、そのまま回り始めたものだから僕は軽く目が回った。
やっと放してくれた頃には、太陽は城壁近くまで昇っていた。蒼たちも目を覚まし始め、ホームの中が騒がしくなり始めている。僕は今日、紫たちと鉄柵の西側へ遊びに行く約束をしていたことを思い出し、慌てて顔を洗ってホームに走り出した。その途中で振り返ると、笑顔のシュウが早く行きなさいと言わんばかりに手を振っていた。



ある晴れた日、城の向こうから軽い発砲音が聞こえてきた。
ちょうど昼前の配給を貰っているところだったから、暖かいスープを渡してくれた人に何の音かを尋ねた。

「今日は祭典があるんだよ。この前お生まれになった王女様のお祝いなのさ」

その人は「幸せのお裾分け」と、焼き菓子をいくつかくれた。僕を待っていてくれた紅に駆け寄ると、「私も貰ったわよ」と上着のポケットを叩いた。

「私も祭典見に行きたいわ。向こうにいた時、仕事の手伝いでしか行けたことないもの」
「僕は、楽しそうな音楽しか聞いたことないよ。……例えば何があるの?」
「そうね……、食べ物を売ってる店が並んだり、綺麗な衣装を着た人たちが街中を踊り回ったり、翠の言う通り、音楽隊なんてのもいたわね。昔はサーカス一座も来てたらしいわよ」

紅はまるで蒼を見つめている時のような表情をしていた。紅の話を聞いても、一回も見たことがない僕には祭典というものの素晴らしさは想像できなかった。手に持ったスープを啜り、その暖かさにほっと一息つく。最近日を追うごとに寒くなってきて、寝る時に窓をぼろ板で塞がなくてはならなかった。
紅の話に耳を傾けながらホームについた頃には、城の向こうから聞こえてくる音は楽器の音へと変わっていた。音は風に乗ってやってくるので、よく聞こえたり聞こえなくなったりした。
ホームの一角の、風があまり当たらない所でスープを飲んでいると、シュウが近寄ってきた。その傍には当たり前のように蒼がいて、紅が慌てて髪を撫でつけたのを僕は見た。

「まだおはようと言っていなかったかな」
「うん。おはよう、シュウ」
「おはよう、蒼も」

紅は蒼に今気付いたかのような口調で言った。蒼はいつもと変わらぬ調子で「おはよう」と返した。シュウは肉団子をかじり始めた僕を見ながら、「ちょっと話があるんだ」と小声で切り出した。

「今日、私と街へ行ってみないか」

つまりは、祭典を見に行かないかということだった。僕は喜んで頷いたし、紅も蒼も同じだった。

「あと紫も連れて行こう。さぁ、早く支度をしなさい。パレードが終ってしまってからでは遅いだろう」

パレードが何か分からなかったが、僕は急いで肉団子をほおばって、まだ暖かいスープを飲み込んだ。すでに食べ終えていた蒼は紫を呼びに行ってくるよとその場を離れる。シュウは「忘れ物がないようにな」と念を押した。それに僕は苦笑いで答えた。僕らは忘れるような物は持っていなかったし、忘れてもまた戻って来れるのだから。

五人でこっそりとホームを抜け出して、城が建っている崖の側面に申し訳程度に備え付けられている木の階段を上った。
長い間雨風に曝されたであろう階段は、体重をかけるたびに低い悲鳴を上げていた。壊れないかが心配だったが、ここを降りたとき同様、何とか耐えているようだった。門扉の前まで来ると、僕が鉄柵の中に入る時に会った門番がいた。服装は少し違ったけれど、帽子と防寒具の間から見える目はあの時と同じだった。僕らの顔を見て目を丸くしていたが、シュウが声を掛けるとはっとして門扉を開いた。

「全員、ですか」
「そうだ。宜しく頼む」

シュウはそんな会話を、呆れたような顔をしている門番とした。僕らは鉄柵の外へ出ることを許されたようだ。門番は大きなハサミのような物を持ってきて、それで僕らの腕に付いている腕輪を切り始めた。高い音を出して、それは簡単に切られた。門番は四つの腕輪を大切に木箱に仕舞いこみ、代わりにシュウに小さな紙切れを渡した。シュウはそれを一瞥して、ローブの奥深くに仕舞いこんだ。そして反対のポケットから布の袋を取り出して、門番の手に握らせた。

「では、お気を付けて」

門番はそう言うと、傍にあった椅子に座り込み、再び鉄柵の中を監視し始めた。僕らはそんな彼を見ることはなかった。なにしろ耳には楽しげな音楽が、目には色とりどりの衣装や装飾品が飛び込んできたのだから。風に漂ってくる美味しそうな匂いも、僕の心を躍らせるには十分だった。
今にも走り出しそうな紫の首根っこを捕まえつつ、シュウは騒がしい方へ進みだした。似たような、でも庭付きの広々とした家の間をすり抜けていくにつれ、人の数も多くなってきた。誰もが目の前の光景に見入っているのか、誰も僕らの存在に気付いてはいないようだった。僕らは彼らに比べれば酷い格好をしていたから、それはそれでありがたかった。
僕らはシュウから離れないようにしながら、右へ左へと視線を動かす。紅の言っていた通り、そこはまるで夢の世界だった。鉄柵の中の赤茶色い風景とは違い、すべてが目の痛くなるような色で覆われているのだから。路上に並ぶ屋台には様々な食べ物が並んでいて、聞いたこともない言葉が活気よく飛び交っている。その近くを大きなスカートを揺らしながら踊る女性たちは、手に持った籠からたくさんの花びらを空に撒いている。それを両手で叩くように捕まえて、なくさないようポケットに捻りこんだ。他にもたくさんの物を見たが、言葉を学び足りていない僕には表現することができなかった。

「こっちだ。はぐれるんじゃないぞ」

ふいに、上着の首元を引っ張られた。
ようやく自分がこの人込みの中で迷子になるところだったのに気がついた。振り向くと紫が冷やかすように笑っていて、顔が熱くなるのが自分でも分かる。シュウは心配なのか、僕の頭に手を乗せながら歩き始めた。パレードに見入っている人々の間をすり抜けて、祭りの中心である広間を出る。まだパレードは終っていないのにどうして中心街を抜けるのかが分からなかったが、シュウは黙って僕らを押し続けた。
最下層の住宅地を抜け、市場と工房を進み、ついには城門の前に来てしまった。広間に国民のほとんどが集まっているのか、市場や工房にいるのは、詰まらなさそうに本を読み、時々パレードのほうを気にしている留守番だけだった。

「なあシュウ、市場なんかに来ても意味ないぜ」
「そうだよ。ホームは反対側だし」

紫と僕が何を言ってもシュウは振り向こうとせず、とうとう出国手続きをしてしまった。傍にいた兵士が、出入り用の扉を衛る鉄格子を上げるための歯車を回し始めた。

「さぁ、行こうか」

今にも開きそうな扉の前に立ったシュウが、そのしわくちゃの手を伸ばした。
蒼は何もかも知っていたかのようにシュウの隣に駆け寄り、僕らの顔を見た。紅はそれで何かを悟ったのか固く握った手を細かく震えさせていたが、意を決したらしく歩き始めた。
紫が僕の顔を見た。何を言いたいのか、手に取るように分かった。

「す、翠たちも早く来なさいよ! この国に未練なんてないでしょ」

震え声の紅の後ろで、地鳴りのような音を立てて鉄格子が上がりきった。意外と軽く開いた木の枠に切り取られているのは、果てしなく続く青々とした風景だった。紅の声がやけに耳に残り、僕は後ろを振り返って国を見た。まだ祭典は続いていて、まるで僕らなど最初からいなかったような感じがした。ホームから僕らがいなくなっても、きっとファミリーはいつも通り寝床に付くのだろう。今までそうだったように。
胸の奥が、きつく締め付けられた気がした。
僕は紫の袖を掴み、消え入りそうな声で「行こう」と呟いた。紫は拒まなかった。
やっとのことで決心した僕らを見て、シュウは扉の外へと歩き出した。外へ出ると、兵士が歯車を反対側に回し始めた。開ける時よりもずっと早く、鉄格子は地面とぶつかった。

「すまないな、急に連れ出してしまって。しかし君たちにたくさんの魔術を教えようと思ったら、あまり時間がなくてね。……ほら、あれに乗って移動するんだ」

シュウは雨風で色あせた城壁の傍に止められている馬車を指差した。美しい毛並みの馬が二頭繋がれていて、荷台には土色の布が掛けられていた。

「どこまで移動するんですか? シュウ」
「とりあえず、私達の隠れ家だ。さぁ行こう。もう一週間もアイラスを待たせしまったからな」

シュウが僕らを急かして言った。
馬車の荷台に乗せられて、揃いのコートを手渡された。兵士が着るような黒いコートは、僕らが着るには少しばかり大きかった。御者台にはシュウよりは若そうな男――多分さっきシュウが言っていた、一週間待ちぼうけを食らっているアイラスほいう人――が座っていた。髭は伸び放題、肩近くまである髪は適当に後ろで纏められていて、シュウと同じようなローブを纏っていた。シュウが隣に座ったのを見て、大げさな態度で肩に手を回した。

「おうおう、久しいなあシュウよ。何年ぶりだ?」
「悪かったよ、悪いと思ってる」
「いっつもそれだかんなあ……。おいボウズ……おいおいなんだ、いっぱい連れてきたな。まあ、忘れモンねえな? 一応言っとくが、ここには二度と帰ってこねえと思うぞ」

アイラスは仰け反るように後ろを向いて、僕らの顔をじっと見つめてきた。蒼はどこか思いつめたように荷台の床を眺めていたので、紅が突っぱねたように答えた。

「ないわ、そんな物持ってないし」
「そりゃいいや。んじゃ、行くか」
「頼む」

アイラスは手綱を波打たせ、縮こまって生えている草を舐めていた馬たちを道なりに西へと進ませた。
僕らは荷物のたくさん載った荷台の中で身を寄せ合いながら、刻々と遠のいていく城壁を見つめていた。風がいまだ続くパレードの音楽を、名残惜しげに届けてくれた。




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