【中編】 本の蟲 -side.A- (下)@souhyouuto


/ / 下】




レギに助言を得てから、アニの生活は少しずつ変わり始めた。
まず、一番の変化と言っていいのは、家庭教師が付いたことだろうか。
久しぶりに父親と一緒に夕食を食べていたとき、アニは、

「私、学校に通いたいの」

と、言った。父親はいきなりのことに戸惑ったものの、咳払いを一つして、アニの目をじっと見ながら問いかけた。

「どうしてそんなことを言い出すんだ?」
「学校に通うのが……勉強するのが、そんなに悪いことなの? 私、ママと住んでいたときは、ちゃんと初等科に通っていたのよ。試験でいい点を取ったら、ママ、すっごい喜んでくれたんだから。お父様はそれが嫌なの?」
「いや……、そういうわけではない」
「じゃあ、どうして? どうしてダメなの?」
「む……」
「……」

しばらく、沈黙が続いた。アニはぎらぎらした目で父親の目をじっと睨み付けていたし、父親も父親でアニの目を見つめていた。

「……アニ、お前は本当にアメーリエ――母親に、よく似ているな」

父親はスプーンを置くと、小さくため息をついた。

「ママに?」
「あぁ、そうやって勉強をしたいと言い出すところなんて特にな。……いや、だからこそ心配なんだ。お前が母親と同じように、知識を身につけたばっかりに……危ない目に遭ってしまうのではないかと……」

母親が危ない目に遭った?
アニは今まで聞いたことのない話に小首を傾げた。だがそれより今は、父親に勉強することを認めさせるのが優先と、アニは口を開く。

「……だから、勉強するなって言ってたの?」
「…………そうだ」
「……、でも、私、勉強がしたいの。危ない目に遭うかどうかなんて、やってみなきゃ分からないじゃない」
「だがな、アニ……、」
「い、や」
「アニ……」
「いやったらいやよ。私、諦めなんてしないんだから」

父親は頑として諦めようとしないアニに折れたらしく、最終的には条件付きでそれを許してくれた。
その条件とは、
「次の編入試験において、首席で入学すること」
である。
つまりそれは、もし合格点であっても首席でなかったら、学校に通うことも、そのまま勉強を続けることも許さないということだ。どうやら、父親はどうあってもアニに勉強をさせたくないらしい。
しかし、やるなら完璧にやって見せろという父親の挑戦を、アニは受けた。

「家庭教師は……そうだな、下手に他の者を呼ぶより、ヘンリエッテがいいだろう」
「ヘンリエッテ、さん? それって、お父様の助手の人?」
「そうだ。助手になる前は学校で教師をしていたらしいからな、適任だろう。……不満か?」
「ううん! ずっと話したいなって思ってたの」
「……そう、だったのか。それは知らなかった」
「だってお父様、ずっといないんだもの。言いたくても言えないわ」
「……む、すまん」

父親は本当にすまなさそうにして、明日から勉強を始めてもいいと言った。
翌日、アニはさっそく勉強を始めた。
塔で過ごしていた時間を勉強の時間に変え、必死に勉強した。レギと会う時間がなくなってしまうのはつらかったのだが、それ以上に、知らなかったことを知る喜びと、もっといろんなことが知りたいという気持ちに駆られていた。

「私、こんなに楽しいの久しぶりです!」

勉強の休憩にと紅茶を飲んでいたヘンリエッテは、満面の笑みでそう言った。

「アニは教えれば教えただけ吸収してくれますし、教えがいがあります!」
「ヘンリーの教え方が上手なんだと思うわ。きっと教師が合ってるのよ」
「教師かぁ……。うん、そうかもしれませんね」
最初こそ、「そそそそんな重要な仕事を私に?」と慌てふためいていたヘンリエッテだったが、時間が経つうちに二人はすっかり仲良くなっていた。

「そういえば、パパって今日も遅いの?」

次に変わったことといえば、アニと父親との距離が、少し狭まったことである。

「ニコラウス先生は、えーと、えーと……、今日は外食となっていますね」
「外食?」
「はい、研究費を出資してくださってる侯爵さまとの夕食会だそうです」
「そういえば、パパって何の研究をしているの?」
「それが……私はまだ見習い助手ですから、雑用しかまだ任されていないんです」
「そう……。何だか、聞きたくても聞けないのよね」

今までは外出していることがほとんどだった父親だったが、アニがヘンリエッテに勉強を教えてもらうようになってからは、少しだけ屋敷にいる時間が増えた。食事も一緒に取るようになったし、たまに勉強の様子を物陰から見守っていた。
アニも父親のことを少しずつ、本当に少しずつだが、頼るようになっていた。
それは他人から見れば些細な距離の変化だったかもしれないが、アニと父親――今までまったく会話をしなかった二人にしてみれば、それは大きな歩み寄りであった。
ただ、唯一変わっていないのは、いまだに塔へと入ることは許されていないということだった。

「ごめんね、レギ。あんまり来てあげられなくて」

珍しく父親とヘンリエッテが外出した日、アニは塔を訪れていた。
レギは以前と変わらぬ様子で、ソファーに腰掛け、本を愛でていた。もしかしたらやつれてしまっているのではと心配していたが、レギは以前より血色がよさそうにも見えた。

「どうしてだい?」
「……レギは私が来なくても、ぜんぜん寂しくないの?」
「ふむ、……確かに、アニが来てくれていると、心が温かい気がするよ」

レギは天を仰ぐようにして、アニがいるときといないときの自分自身について考えているようだった。そして隣に座ったアニに笑顔を向けながら、

「だが、アニにはやるべきことがあるのだろう? 私は、その邪魔をするようなことは、したくないのだよ」

そう言った。それを聞いて、アニは少しだけ眉をひそませた。レギに合わせていた目線を床に向け、古ぼけた絨毯の繊維を一本一本睨みつけるかのように見つめる。
レギはアニの変化に気付き、困ったようにきょろきょろと顔を動かして、「それでも、」と付け足す。

「もし、アニが寂しくなったときは、夜中、塔から見える窓際に本を置くといい。すぐに会いに行ってあげるから」

拗ねてしまったアニをなだめながら、レギは言った。なんだか頬が緩み始めたアニだったが、これじゃあ私が寂しかったみたいじゃない、と、再び頬を膨らませる。

「別に、そんなつもりで言ったんじゃないもん」
「おー、よしよし」
「ちがうもん!」

さっそくその夜、塔から見える窓際に本を立てかけてみた。
すると、いつの間にかレギがベランダに立っていた。窓を開けて、よいこらせと部屋に入ってくると、

「ふふ、ちゃんと来ただろう?」

どこか誇らしげに胸を張って見せる。
塔以外で見るレギは、不思議といつもと違って見えた。
腰まである黒い長髪も、黒い服とガウンも、目に巻かれた包帯も、透き通るような白い素肌も、透明なその声も、何一つ変わっていないはずなのに、だ。

「ね、レギ。私が寝るまでそこにいてね?」
「もちろんだとも」

ベッドに潜り込んだアニの前髪を梳きながら、レギはほほ笑む。
レギが見えない目でどうやってここまで来たのか?
きっとレギは、視力はないが何かしらの方法で辺りを感知できるのだ、とか。
実はレギは塔に住み着いている、本を食べちゃうオバケなのだ、とか。
色々考えたりはしたものの、それらはもう、アニにとってはどうでもいいことだった。
もし、レギが何者なのかを解いてしまったら――、きっとレギは、アニの前からいなくなってしまう。……そんな気がしていたからだ。

(傍にいてくれるだけで、それだけで……)

それだけで、世界から切り離されるような恐怖から、レギという存在が救ってくれる。

「おやすみなさい、レギ」
「おやすみ、アニ。よい夢を」





アニが寝てしまったのを確認したレギは、その小さな手の甲に触れるだけのキスを落とす。
起こしてしまわないようにそっとベッドから腰を上げ、入ってきた窓から音もなく塔へと戻っていく。
それはしだいにレギという形を失い、小さな虫の集合体となって、誰の目にも触れないように闇の中を進み続ける。そしてさらさらと音を立てながら、塔の扉、窓、すき間から中へと入り込んでいった。
塔の中ではヘンリエッテが、エプロン姿でレギを探していた。

「レギナルトさん? ……あら、いないのかしら? レギナルトさーん?」
「やぁ、ヘンリー嬢。こんばんは」
「ひゃあっ」

するりと背後から現れたレギに、ヘンリエッテは悲鳴を上げた。
レギはくすくす笑いながらガウンを掛け直して、

「今日も掃除をしに来てくれたのかい?」

と、尋ねた。
ガウンの下は首元が広く開いている薄い服だけで、白い地肌や浮き出た鎖骨がちらちらとかいま見える。それに少し顔を赤らめながら、ヘンリエッテは頷く。

「こ、この塔、上に行くほど埃まみれですから。誰かが掃除しないと、埃がお二人の肺に積もってしまいますし、レギナルトさんのお洋服も汚れてしまいます」
「ふふ、ありがとう。……でも、それだと勉強する時間がなくなってしまわないかい? 睡眠不足では、明日の仕事が辛いだろう」
「い、いえ、今日中にすべてを終わらせるというわけではありませんし……。これも仕事ですから!」

ヘンリエッテは袖を肘上までまくり、髪も頭巾でまとめて、雑巾と埃叩きを手にずんずんと螺旋階段を上って行く。髪やスカートが大きく揺れるたびに見える首筋やふくらはぎには、いくつもの青あざがあった。
レギはヘンリエッテが行き止まりまで登って行くのを見送ると、入ってきた父親――ニコラウスにほほ笑みかけた。

「……ずいぶんと、楽しそうだね。ニコ」

頬が少し赤らんでいるのを見ると、ワインか何かを飲まされてきたらしい。

「そんなことを言うなら、お前が夕食会に行くといい」

ニコラウスは整えられた髪を右手でぐしゃぐしゃにすると、大きく息を吐きながらデスクチェアに倒れるようにして座り込んだ。
塔の窓はヘンリエッテによってすべて開け放たれており、吹き込んでくる夜風にニコラウスは少しだけ表情を和らげた。

「ヘンリエッテはどうした? 先に帰っていただろう」
「ヘンリー嬢なら、今日も二十分ほどの掃除をしてくれているよ。ほら」

レギは頭上を見上げて、もそもそと動いている小さな塊を指した。ニコラウスは小さなため息の後、きちんと座りなおして、

「……彼女はいつまで持ちそうだ?」

そう、問いかけた。
レギは口元を歪ませて、視線をニコラウスへと合わせる。

「……、そんなことを聞くなんて、珍しいこともあるものだな」
「……ヘンリエッテには娘の……、アニの家庭教師をさせている。この前話しただろう、学校に入りなおしたいというアニとの賭けだ。適当に教師役を見つくろってわざと落とさせる手段もあったが……、プライドが高いというのは、こういうところで面倒だな。そんなことできやしなかったよ。まぁ、首席にはなってほしくないというのが本音だがな。……それに、アニも彼女を気に入っているようだし……、だから――、」
「だから、今食べつくされるのは困る……だろう? お前の考えていることなど、手に取るように分かるよ」

レギがアニと会っているということを、ニコラウスはまだ知らずにいた。
それは使用人たちがアニの行動にまったく興味を持っていないということでもあったし、悪い噂の絶えないニコラウスにいちいち報告に行くような、お節介な集団でもなかったということでもあった。

「……」
「ふふ、そう睨むな。今回は我慢してやろうと言っているのだよ」

ニコラウスは予想外な申し入れに、ぽかんと口を開けてレギを見つめる。

「……、レギナルト? 正気か?」

レギは、肉類、魚介類、穀類といった、一般的な食べ物は摂取しなかった。
食べたとしてもあまり腹の足しにはならず、唯一手を出せる野菜類にも、「まるで土を食べているようだ」という感想を持っていた。
レギが好んで食べるのは、人間を介とした知識だけである。
といっても知識なら何でもよいわけではなく、質の悪いモノ――例えばこの古屋敷の使用人たちには、食欲がなくなりそうだという理由で、近づきさえもしなかった。

「ん? それとも、食べつくしてしまってもいいのかい? ちょうど一人分ほどお腹が空いているのだが」
「いや……、いや、それでいい。アニとの賭けが終わるまで、彼女は残しておいてくれ」

それだけ言うと、ニコラウスは安心したように瞼を閉じた。

「子育てに苦労しているようだね」

レギは本棚から本を取り出して、いつものソファーへと座りこむ。そしていつものように表紙を愛でながら、ニコラウスのアニへの親心を笑った。

「まぁ、そのようなものだ。こういうことはすべてアメーリエ……、彼女に任せていたからな……。お前さえいなければ、僕もアニと一緒に暮せたというのに……」
「ふふ、お前と私とは、アメーリエと会う前からの仲だろう? ニコ」
「あー、そうだった、そうだったな。僕はなんて失敗をしたんだろうな。こんな人間の形をした悪魔を、信じ切ってしまうなんて!」

くすくすとからかい続けるレギに、ニコラウスは半ば怒鳴るようにして言った。
その声が聞こえたのか、ヘンリエッテが慌てて螺旋階段を下りてくる。どうやら、いつまで掃除に時間を費やしているのだと怒鳴られたと、勘違いしたらしい。
転がるように降りてくるヘンリエッテを目線だけで追いながら、ニコラウスは続ける。

「……はぁ、そんな済んだことはどうでもいいんだ、レギナルト。いいか、何があっても、アニにだけは、ぜったいに手を出すなよ。例え僕がお前との契約を破ってしまったとしても、だ。…………そのときは、僕を食べろ」

最後の一言に、レギは不味いものを食べたような顔をした。





***

試験前夜、アニはヘンリエッテとともに、最後の詰めをしていた。
アニが受かることは誰の目にも明らかだったが、父親との賭けに勝つためには、首席で受からなくてはならない。しかも、入学試験とは違い、編入試験は難しいのが一般的である。
だからこそアニは、一問たりとも間違えたくはなかった。

「――はい、そこまで。時間ですので、鉛筆を置いて、記入をやめてください」
「はー……、なんだか神経がすり切れちゃいそう」

試験さながらの練習をしていたアニは、ヘンリエッテの終了の合図とともに、机に突っ伏した。

「アニならきっと大丈夫ですよ。なんたって、ニコラウス先生の娘さんなんですから」

楽しそうに採点を始めたヘンリエッテは、自信満々に断言した。

「だといいんだけど……。 ?」

ふとアニが目線を上げたとき、ヘンリエッテの肩口に小さな青あざを見つけた。
そういえば、ヘンリエッテの体には青あざがよくできていたことを思い出した。腕、二の腕、肩口、背中、太もも、膝、ふくらはぎ……、何度か一緒にお風呂に入ったことがあるから、どこに多いかはすぐに分かった。
小さいため、時間が経てば消えてしまうものの、あざはあざだ。

(……これは……もしかして……ううん……パパに限って……)

父親がヘンリエッテを虐めているのではないかと考えてしまったアニだが、虫を避けて歩く姿を思い出し、そんなはずはないと頭を振る。
アニは採点に夢中になっているヘンリエッテに怪しまれないように、服から露出している肌をくまなく見る。初めて会ったときより、少し大胆な服を着るようになっていたものの、他にあざらしきものは見当たらなかった。

「ねぇ……、ヘンリー」
「はい?」
「その……、肩にあるあざって、どうしたの?」

アニが聞くとヘンリエッテは一瞬何のことだか分からないようだったが、みるみるうちに耳まで赤くして立ち上がった。

「へああああのこここっこ、これはですねあの! その! わ、私、生まれつき血小板が少ないのかそれとも働きが悪いのかはまったく分かりませんが青あざができやすい体質でして! そ、その、違うんです!」
「……え、何が?」
「いやいやいやいや違うのが違いました! や、やだ私ったらもう! 何を言っているんでしょう、恥ずかしい!」

ヘンリエッテは熟れたリンゴのように真っ赤で、明らかに混乱していた。そして採点用のペンを握りしめたまま、自分の部屋へと一目散に逃げ帰ってしまう。
どうやら虐められたわけではないのだと安心したアニだが、どうしてあんなに赤くなるのかは、さっぱり分からなかった。

「あざって……、もしかして、恥ずかしいものなの……?」

しばらく待っても、ヘンリエッテは帰ってきそうになかった。
アニは諦めたようにため息をついて、明日のためにもう寝てしまおうと立ち上がった。倒れ込んだベッドは、とてもやわらかくアニの体を受け入れてくれて、次第にふわふわしたような感覚に満たされていく。

(明日の試験に受かったら、レギは喜んでくれるかしら……)

いや、考えるまでもなく、喜んでくれるだろう。
だが、入学したところで、まだなにもレギの役には立てないのだ。

(もっと……、もっと、いろんなことを勉強しなくっちゃ)

ベッドに沈み込んでいくような感覚とともに、アニは眠りに落ちた。






「ヘンリー嬢……、大丈夫かい?」
「はぅっ! す、すみません!」

翌日、アニは父親に連れられて、馬車で学校へと向かった。今日一日、父親は何の仕事も入れずにアニに付き添う予定らしい。
ヘンリエッテも今日は休みをもらっているのだが、落ち着かないらしいく、アニを送り出してすぐに塔へとやって来ていた。しかし心ここにあらず、といった感じで、書類をぶちまけたり、本につまづいてこけたり、階段から転げ落ちそうになっていた。

「怪我をするといけない……。今日はもう休んでいなさい」
「で、でも、何もしてないのも落ち着かなくてですね……」
「ふむ……」

顔を赤くしながらしどろもどろに答えるヘンリエッテに、レギは困ったように腕を組んだ。

「……では、アニが帰ってくるまで、私と話をするというのはどうだい? 少しは落ち着くだろう」

そう言って、レギはいつものソファーに腰掛け、空いているところをぽんぽんと叩く。
ヘンリエッテの顔が、今までで一番真っ赤に染まった。びくりと震えた後、まったく動かなくもなってしまった。
昨日から様子のおかしいヘンリエッテだが、それには理由があった。

(ど、どどどどどどうしたらいいのかしらこんなとき! 横? レギナルトさんの横に座る? あんな近いところに? むりむりむりむりむり! お、落ち着いて私! 落ち着くのよ! あああああもう心臓止まって! 止まったら困るけど一旦止まって! 見たのは夢! ただの夢! レギナルトさんがわ、私に、私に…………、いやああぁぁぁぁぁああああ恥ずかしいいぃぃぃぃぃいいいっ!)

まぁそんなこんなで、ヘンリエッテ曰く恥ずかしい夢の中に、レギナルトが出てきたらしい。そしてアニに指摘された青あざは、夢の中でレギが触れたところだった。
そして、今までできた青あざは、すべて、夢の中のレギが触れていた場所でもあった。

「……ヘンリー嬢……?」
(そうよ! レギナルトさんが私みたいな田舎者、相手にするわけがないじゃない! しかも年の差! 二十も歳の差があるのよ! レギナルトさんから見たら、私もアニと同じような女の子って見られてるんじゃないの? それに目が見えないし……でもそんなところが支えてあげたくなるけど……って! って! 恥ずかしい! 私すごい恥ずかしい! 穴があったら入りたい! あぁもう、私どうすればいいの?)

その夢によって、今まで以上にレギのことが気になってしまっているらしい。
混乱の末に導きだした答えは、

「あ、あの!」
「ん?」
「お、お茶でも入れてまいります!」

であった。

「ああ、よろしくお願いするよ」

レギの返事を待たないまま、ヘンリエッテは塔を飛び出していく。
唐突に一人になってしまったレギは、ソファーに深くもたれ、口元を緩めた。

「……ふむ、口をつける場所は、もう少し考えないといけないようだ」

きっとアニにも迷惑をかけただろう、と、すまなさそうに隣の席を撫でる。
ヘンリエッテの見た夢は、ただの夢ではなかった。父親――ニコラウスと、試験までは食べつくさないと約束はしていたが、毎晩少しずつ、アニへの支障が出ないように、ヘンリエッテのため込んだ知識を食べてはいた。
もちろん、ただ食事をしていただけなのだが。

「今頃、アニは試験中だろうか……」

レギにとって、ヘンリエッテは食べ物以外の何物でもなかった。

「ふふ……、アニ、かわいいアニ……。私は、どこまで我慢ができるだろうか……」

レギの口元は歪みきって、ざらざらと、その形がぶれる。
ヘンリエッテが帰ってきたことで形は崩れるまでには至らなかったが、レギは、その軽い興奮を収めきれてはいなかった。

「まずいな……。お腹が減ってしまった」
「へ、あ、何かお茶菓子をもらってきますね!」
「いや……、」

アニは必ず、編入試験に首席で合格してみせるだろう。
レギは確信していた。きっと、ニコラウスも承知の上なのだろう。
そんなにアニを甘やかしていて、はたして守りきれるのだろうかと、レギは少し心配していたりもする。何の障害もなく得られる食べ物は、あまりおいしくないからだ。

「……ヘンリエッテ」
「っは、はひ!」

レギはヘンリエッテの手を取り、腰を取り、自分の体に引き寄せる。
ヘンリエッテの顔はもちろん真っ赤で、煙でも出てきそうなほどだった。
レギはその肩に顔を寄せ、口を付ける。もう少し熟れるのを待ってもよかったのだが、体中を蠢くような空腹感にはどうやら勝てそうにない、と、レギは小さく息を吐いた。

「レ、レギナルト、さん」

その動作ごとにヘンリエッテはびくびくと体を震わせ、服越しに張り裂けそうな心臓の音が伝わってくる。

「…………、ひっ」

ヘンリエッテが、息を飲んだ。
あれほど真っ赤だった顔は見る見るうちに血の気を失い、レギから離れようと腕の中でもがく。その恐怖に染まった目が見つめている先には……、大量の、虫がいた。そしてそれはレギから湧き出ていて、レギという形が崩れるのに比例して数が増えていく。
胸部から腹部にかけてなめらかな涙滴形をした、細長く、かつ偏平な小さな虫であった。翅はなく、頭部からは長い触角が伸びている。一対の尾毛と、一本の細長い突起が後ろに生えており、それはまるで尻尾のようでもあった。
表面は鱗片で一面埋めつくされており、動くたびに、ランプの灯りをてらてらと不気味に反射する。
それは――、紙魚(シミ)と呼ばれる、昆虫であった。

「な、何なんです、これ……。いや……いやよ、放してください!」

その言葉とともに、レギの形は完全に失われた。
ヘンリエッテは体にまとわりつく虫を払おうと腕を振り回すも、多すぎる数に、すっかり平常心を失ってしまっていた。足元にも蠢く虫を避けようとしてバランスを崩し、床に――虫の上に倒れこんでしまった。

「ひっ! いやぁ!」

視界を染め上げる虫に、ヘンリエッテは涙を浮かべながら扉へと這いだす。
進むごとに体の下で何かがつぶれるような感覚がする。体中を這いまわる虫は、払っても払ってもきりがない。それでも、ヘンリエッテは、すがるような思いで扉の方へと手を伸ばした。

「だ、誰か……」
「誰も来ないよ、ヘンリエッテ。君も知っているだろう? ここの使用人たちが、どれだけこの塔を忌み嫌っているか。……それに、アニやニコがまだまだ帰ってこないということぐらい、利口な君は、分かっているんじゃないのかい?」

上半身だけ現れたレギは、白い両手で、逃げようとしているヘンリエッテの背中を押さえつけた。そしてくすくすと笑いながら、耳元で囁いた。

「さて……、どんな食べられ方が、お望みかな?」






日も暮れて、アニと父親が馬車で帰ってきたとき、ヘンリエッテが二人を迎えることはなかった。
使用人に聞いても一様に知らないと首を振り、屋敷中を探しまわっても見つからなかった。そういえばお昼近くに紅茶セットを持って出て行ったと、誰かが言った。アニは父親の制止を振り切り塔に駆け込む。
だが、そこにはヘンリエッテはおろか、レギさえもいなかった。ランプはすべて消されており、真っ暗な湿った空間がぽっかりと口を開けているだけだった。

「アニ、アニ! 塔には入っては駄目だ」
「だって! ヘンリーがいないなんておかしいわ! ねぇ、パパだってそう思ってるんでしょう?」
「もちろんだ。……だが、これだけ探してもいないということは、屋敷の中にはいないということだろう。森の中を探すにしても、日が暮れていては危険だ。アニはもう帰りなさい」
「いやよ!」
「アニ! アニ、お願いだ。お前までいなくなってしまったら、僕はどうすればいい?」

父親の言葉に、アニはぎゅっと両手に力を入れた。
そして小さな声で謝って、しぶしぶと屋敷へと戻っていく。父親はアニを自室まで送り届けて、もう一度探してくる、と、屋敷を出た。
聞く相手は分かっていた。
――レギだ。

「レギナルト、いるのか?」

再び塔へと戻ってきた父親は、真っ暗な空間に問いかける。

「レギナルト、返事をしろ! ヘンリエッテはどうしたかと聞いている!」

その声は塔の中で響き渡ると同時に、ざらりと、どこかで重たい音がした。
そしてさらさらと音を立てて螺旋階段を下りてきたレギは、とても満足そうな笑みを浮かべていた。

「やあ、ニコ。おかえり」
「レギナルト……、お前、」
「ヘンリエッテのことだろう? 食べたよ、隅から隅まで。おかげで空腹が満たされた。……約束はアニが受かるまでだったが……、心配しなくとも受かるんだろう?」

レギの言葉に、ニコラウスは落胆の色を浮かべる。
大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。

「だからといって……」
「もう少し待ってほしかった、かい? ……そんなことを言われても、腹が減るのは、私にもどうにもできないからね。……あぁ、そういえば、入れ物はいるのかい? まだ消化しきってはいないが……、早く決めてもらわないと、お腹が重くてしかたがない」

レギはお腹の辺りをさすって、ニコラウスに問いかけた。






***


月日は流れ、父親との賭けに見事打ち勝ってから九年。
アニは今日、高等科を首席で卒業した。
父親は、

「やはり血は争えないな……」

と、悲しいやら嬉しいやらで涙を流していたが、アニは誰よりも先に、この嬉しさを伝えたい人がいた。
父親より先に屋敷に帰ってきたアニは、馬車から飛び降りて、そのまま塔へと向かう。フリル控え目な制服のスカートを両手で鷲掴みにして、ブーツで土をけり上げて、なりふり構わず塔にたどり着き、ドアを力いっぱい開けた。

「レギ! レギ! 聞いてちょうだい!」

その伝えたい人――レギは、いつもと変わらず、ソファーの上で本と戯れていた。
ここ数年のレギは、愛でるだけでは飽き足らず、本の山に埋もれてみたり、嗅いだり齧ったり舐めたりと、まるで本中毒者のような奇妙な行動を取っていた。
アニが年を取るごとに、それは進行していった。
本を読んでもらえるという期待感が、レギをそうさせているのだと思っていた。

「アニ、あぁ、アニか。どうしたんだい、そんなに慌てて」
「レギこそ、今日は一段とひどいわね……」

レギはソファーが埋もれるほどに本を置きざらしにして、その中で眠るように埋もれていた。アニは分厚い本で骨が折れてしまわないかと毎回心配するのだが、レギは何度言っても、いつの間にか本の中へと戻ってしまっているのである。
アニは何冊かの本をどけて、そこにかいま見えたレギの白い手を掴んで引っ張る。

「ほら、ちゃんと座りなさい。本踏んじゃったらどうするの」
「やれやれ、今日のアニは一段と怖いね」

ぼさぼさになった黒髪を整えながらも、レギは本を手放そうとしない。これは早いところ読んであげないと、本当に本を食べてしまいかねないだろう。
アニは呆れながらレギをソファーに座らせて、鷲掴みにしてくしゃくしゃになったスカートを整える。そして小脇に抱えていた帽子を頭に載せて、

「ね、レギ、私、高等科を首席で卒業したのよ」

と、誇らしげに胸を張った。
後ろで緩くまとめられた亜麻色の髪に、自信と希望に満ち溢れた栗色の双眸、そして、首席卒業を示す帽子とローブを羽織ったアニは、少女と大人の女性、どちらでもないような雰囲気を漂わせた、とても美しい笑顔をレギに向けていた。
レギはぽかーんと口を開けていたが、初めて手から本を放し、満面の笑みに変わって立ち上がった。

「えへへー、すごいでしょ!」
「本当に、すごいと思うよ。……アニが一生懸命がんばったからだろうね」
「うん!」

アニはくるくると回った勢いのまま、突っ立っていたレギに抱きつく。よろけるかと思っていたレギの体は、意外にもあっさりとアニの体を受け止めた。

「とても…………、とてもすばらしい……」

レギは満面の笑みのまま、アニに顔を近づけ、そして――、





「レギナルト!」

静まりかえった塔に、父親――ニコラウスの罵声が響き渡る。

「出てこい!」

本を叩きつけ、机を殴りつけ、塔に響き渡るように轟音を立てるニコラウスに観念したのか、レギがするするとどこからともなく這い出てきた。

「なんだニコラウス……。私は今眠い――」
「お前、アニに何をした! あれほどアニだけには手を出すなと言ってあっただろう!」

ニコラウスは鬼の形相でレギの胸ぐらを掴み、充血させた目をレギの包帯下へと向ける。
その必死さにレギはくすくすと、とても愉快そうな口元で笑いだした。

「アニ? あぁ、アニか。……知っていたかい? お前があまりにもぞんざいに扱うものだから、この屋敷に来たころから、私のところへとやって来ていたんだよ。ニコ、お前がいないときにね。…………あぁ、あの頃は楽しかったなぁ……まるで種を植えて水を与えているような感覚だったよ。……あぁ、アニ。かわいいアニ。私のためにどんどん熟れていく姿に、何度……何度、途中で手を出そうとしたか……」
「お前……!」
「でも褒めてくれよ? 本当なら最後の一滴まで……、骨の髄まで舐めつくしてしまいたいところだが…………殺してしまっては、あの子の母親を食べつくしてしまったときのように、またお前の気がふれてしまうと思ったのでね。あのときのように、不味い飯を運ばれ続けるのはもうまっぴらなのだよ。それに、あんなにおいしそうな子を、一度に食べてしまうのももったいない。…………大丈夫。安心したまえ。アニはちゃんと生きているよ。ほんのちょっと、味見をしただけだ」

かさり、と、レギから何かが落ちた。
それを引き金にざらざらとレギの形が崩れ始め、ニコラウスの両手と床には大量の紙魚がうごめき始める。

「……っ!」

反射的に手を放して数歩下がったニコラウスの足元で、ざらりざらりと紙魚が這いだす。
レギは、紙魚という名の虫が寄り集まった――、化け物だった。
世界中のすべての書物を食べつくしたいと強く願った紙魚と、世界中のすべての本を読んでみたいと強く願った――ニコラウスの唯一の親友だった少年。
その二つの魂が創り上げてしまった貪欲な食本家――、それこそが、レギナルトであった。

「アニに手を出してしまったのは……味見だけとはいえ、すまないと思っているよ。お前との約束を破ってしまったのだからね」

その中でひときわ大きな一匹が、ひくひくと触角を動かしながらニコラウスに近づく。

「でもね、ニコ、ニコラウス、忘れてはいけないよ。お前のすべて……、知識、地位、名誉、信頼、財力、この古屋敷も、アニとの関係さえもが……、私のおかげなのだということを。……逃げてはいけないよ? 逃げたとしても、君の命が絶えるまで、世界中のどこまでも追いかけよう。…………今の生活を続けたいというのなら、その命が尽きるまで、私のために探してきた助手を捧げ続けるといい」

本棚や床のすき間にすべての紙魚が消えて行ってしまうまで、レギの笑い声が止むことはなかった。





/ / 下】

コメントの投稿

非公開コメント

Credit
Background vector created by Lembrik - Freepik.com