【中編】 本の蟲 -side.A- (上)@souhyouuto


【上 / /




「アニ、お前は何もしなくていい」

それが、父親・ニコラウスの口ぐせだった。
父親は研究を仕事としている人で、街から森一つ離れたこの古屋敷で、数人の使用人や助手とともに生活していた。

アニはもともと、町医者を営む母親と二人で街に住んでいた。
だが数週間前、母親がなんの前触れもなく失踪してしまった。突然のことに戸惑うアニは、形ばかりの葬式に現れた父親に連れられてこの古屋敷へとやってきた。
アニと父親が会ったのは、それが初めてだった。
父親が、アニと母親が住んでいる家に近づくことがほとんどなかったからだ。
唯一の交流といえば、母親宛てに送られてくる手紙と生活費が入った封筒のみだった。
しかし小さなアニにはその手紙の内容を知ることはできなかったし、母親も、アニに読み聞かせようとすることはなかった。ただ、いつも手紙を読み終えた母親は、

「パパは元気にしているって」

と、泣きそうな、それでいて悔しそうな表情でアニをぎゅっと抱きしめた。
世界のすべてだった母親を失ったアニは、まるで目隠しをされたような、この世界から切り離されてしまったような、言いようのない孤独感に怯えていた。
しかし、急に生活環境が変わってしまったアニに助けの手を差し伸べるものは、父親を含め、一人としていなかった。
ほとんど会うこともなかった父親と、無愛想な使用人たちは、アニの孤独感をより一層深いものへと変えていた。




***

その晩は、ひどい雨が降っていた。
夕方から降り出した雨は夜遅くになってもとどまることを知らず、むしろ激しさを増していた。
幾重にも重なった鉛色の雲から降り注ぐ雨粒は、ガラス窓を割らんばかりの勢いで叩いている。風は断末魔のようにびゅうびゅう、ごうごうと、泣き叫びながら森を吹き抜け、木々は躰をしならせ、ぎぎぎぎ、ざらざらと苦痛の声を上げる。

(眠れない……)

つい数時間前までは誰かの足音や会話が響いていたこの古屋敷も、夜中ともなれば静まりかえってしまう。
十歳の少女が使うには広すぎるこの部屋で、雨音は容赦なくアニの不安をかき立てる。
なんとか寝てしまおうとベッドに潜り込むものの、雨は次第に強くなり、遠くのほうから雷鳴が聞こえ始める始末。と同時に、分厚いカーテンに稲光によって映し出される奇妙な造形が、アニの恐怖心を一層煽っていた。
あのガラス窓が割れてしまったら?
唸る風で屋敷が壊れてしまったら?
カーテンの向こう側に怖い人がいたら?
叫んでも、誰も助けにきてくれなかったら?
どうしよう……、私は、どうすればいいの……?
不安が募るたびに、シーツを握るアニの小さな手に力が入る。

(…………ママ……)

アニは何度目かの寝返りをうったが、しばらくして、諦めたように起き上がった。
手探りでランプを点け、サイドチェアに開きっぱなしになっていた擦り切れた本を手に取り、続きから読み始める。
ページに羅列された文字を追うごとに、雨脚は強くなっていく。
空と一緒に部屋の空気は沈み、すべての音は雨と一緒に地面にしみ込んでいくような感覚。

(世界から置いてきぼりにされたみたいだわ)

それでも、ランプが灯っていることに安心感を抱いていたアニは、窓の外を見てみたいと思った。考えてみれば、こんな大雨は生まれて初めてかもしれない。それとも、今までは母親の隣で安心して眠っていたから、気付かなかっただけかもしれないが。
アニは本をとじると、ベッドの脇に置いてあった靴に足を入れ、そっとカーテンの近くに歩み寄った。
窓には変わらず大粒の雨が叩きつけられていて、途切れることのない雨音がカーテン越しにアニの鼓膜を震わせる。たまにゆらりと影がうごめいて、アニをどきりとさせた。
アニは大きく深呼吸して、目をつむったままカーテンを勢いよく引っ張る。
窓の外には、荒れ狂ったような景色が広がっていた。
古屋敷に隣接する森の木々は吹き荒れる風によって縦横無尽に躰をしならせ、一枚の大きな黒い絨毯のようにも見える。
空にはどす黒い色をした雲が張り付いていて、小さな雲が低い位置で形を変えながら、西の方角へと動いてゆく。
以前ここから見た景色と、どれほど違うだろうかとぼんやり考えていると、屋敷の裏にそびえ立っている塔が見えた。

「あ、」

誰かいる、とアニは思った。
その塔にある日取り窓から、ちらちらと揺らめくランプの灯りが見えたのだ。
アニは窓に張り付いて、その光を凝視する。ガラス越しにアニの頬を凍ったように冷たい雨粒が叩いて、一瞬、本当にガラスに張り付いてしまうのではないかと心配したが、それでも、その灯りが気になって仕方なかった。

(お父様かしら? こんな夜中に、何をしているのかしら……)

そのうちに灯りはか細い虫のように揺らめいて、しだいに見えなくなってしまった。
アニはこれまでにも、この窓から塔を眺めたことがあった。
だが、いずれも灯りなどはなく、ひっそりとした倒壊寸前の塔でしかなかった。
危ないから近づくなと言われていたアニだが、それが間違いであったことに気が付く。と同時に、その塔への興味が湧いてきた。

(あの塔には、何があるのかしら……)

ぺとりと窓ガラスから剥がした頬は、氷のように冷たかった。



翌日、父親が不機嫌なまま街へと出かけて行ったのを見計らい、アニは塔へと向かった。
アニの父親は名の知れた研究者であった。
三十代前半で、精悍な顔立ちと優秀な頭脳を持つ父親は、貴族――特に、物好きな貴婦人たちの間ではもてはやされているらしかった。
とは言っても、街での噂はあまりよいものではないらしく、父親がいない日の屋敷内で使用人たちが噂話をしているのをよく見かけた。
夜な夜な死人をこの屋敷に運び込んでは、怪しげな儀式をしているらしい、だとか。
助手以外塔に近づかせないのは、中に遺体がたくさんあるから、だとか。
身寄りのない人間を連れてきては、塔の地下室で切り刻んで食べている、だとか。
結局のところ彼女たちは、そういう噂話によって、何かしらのストレスを解消したいだけなのかもしれない。
その対象は別に父親でも誰でもいいのだろう。
ただ、たまたま父親だっただけなのだ。
アニはそんな彼女たちを横目に、屋敷の外へと続くドアを開ける。
搭は父親の研究室として使われていて、父親と、助手である限られた人間しか入ることが許されていない。
父親はアニに関してまったく興味を持っていないように思えたが、この塔には近づくなと厳しく言いつけていた。
アニ自身も、ツタが絡まり、窓の数も少なく、オバケでも出てきそうな塔になど近づきたくはなかったのだが、時間が経つにつれて高まっていく好奇心には勝てなかった。

「お父様に知られなきゃ大丈夫よ、きっと」

アニは買い与えられた服の中で一番動きやすそうなものを選び、ランプとマッチをスカートの下に潜め、そろそろと屋敷の裏へと回った。
何枚も神経質に重ねられたフリルとレースのスカートなんて嫌いだったアニも、荷物を隠せるという点では少し見直したようだ。
屋敷の裏には住み着きの使用人小屋と、庭師用のための小屋、馬小屋、そして塔がある。塔へは使用人小屋の横を通らなくてはならず、食事の用意にせわしなく動いている使用人たちに見つからないように、慎重に通り抜ける。
こっそり誰にも知られないように塔に忍び込むという行為は、自然と、アニの気分を高揚させていた。
この屋敷に来て数週間、毎日のように同じような生活を繰り返していたからかもしれない。
どうしようもなく弾む鼓動を感じながら、アニはついに塔の前へとたどり着いた。
塔の扉は、ツタの絡まった古びた外装とは違い、最近取り付けられたような真新しさを感じた。緑色の光沢を放つドアノブに手をかけたとき、ふと気がついた。

(……そういえば……、ここの鍵って開いてるのかしら?)

そう思ってしまった瞬間、心臓がギュッと握りしめられるような感覚に陥った。
ここに立っているところを使用人に見られれば、当然、父親の耳に入るだろう。
そしてどんな折檻を受けるかも分からない。
手足が次第に凍りついていくのを焦る心の片隅で感じていたが、もたもたしている暇もない。
開かなかったら、そのときまた考えればいい。
アニはドアノブを握りなおし、力いっぱい押した。
想像していたよりもずっと少ない力で、扉は内側へと開いた。同時に湿っぽい匂いがアニの鼻をついたが、ひるまず塔の中へと滑りこみ、そっと扉を閉める。

「……、」

簡単に入れてしまったことに、アニは拍子抜けした。
まだ暗い部屋に慣れていない目をこすりながら、辺りを見回す。
塔の中は、本と書類にまみれていた。
窓も少なくランプもないと思っていたのだが、塔の上にある天窓と、――父親が消し忘れたのだろうか――いくつかのランプが灯っていて、ぼんやりとだが塔の内部を知ることができた。
塔の中は、いくつかある窓を避けるように本棚が壁一面に設置されており、ただでさえ狭い内部をより窮屈なものへと変えていた。また、その本を取るために設置されている螺旋階段と張り巡らされた支柱は、塔に張られたクモの巣のようにも思えた。
塔の中央には書類や本が大量に放置された大きなデスクと、座り心地はさほどよさそうにもない大きなデスクチェアが置かれていた。
アニはそろりそろりと近づき、机の上の書類を盗み見る。
そこには見たこともない文字で綴られた文章や本が広げてあり、少しでも触れれば崩れ落ちてきそうな状態だった。
まったく理解できそうにもない内容にアニは目をそらし、スカートの下からランプとマッチを取りだす。マッチを擦ってランプに火を点け、それを片手に塔の中を物色し始める。
本棚に入りきらずに床に放置されている本に注意を払いながら、その背表紙に目を通すも、どれも机の上と同じでまったく理解できそうにもなかった。

「なによ……、せっかくここまで来たのに。おもしろそうな物なんてなんにもないのね」

アニはがっかりというように肩をすくめ、持っていたランプを無造作に棚の上に置いた。
塔内に反響してごとりと大きな音を立てたランプは、怪訝そうにその炎を揺らめかせて、本の背表紙をゆらゆらと照らし出す。

「…………ここに来れば、何か変わるかもしれないと思ってたのに……」

とんだ勘違いだったわ、ともう一度ため息をついた。
アニは本棚の間に埋め込まれるようにして置かれているソファーに倒れるように座り込んで、大きなため息をついた。
頭上を埋め尽くす大量の本はひっそりと、だが冷静にアニの行動を見つめていた。
父親は、この塔で何をしていたのだろうか?
研究? どんなことを?
本だらけの塔でできること?
いくつもの疑問がアニの頭の中で浮かんでは、ため息とともに空気と溶け合った。
するすると止めどなく伸びる螺旋階段を眺めていくうちに、ふと、違和感を覚えた。

「……?」

螺旋階段の上の方、――逆光であまりよく見えないものの、何かがそこに在った。
一つの黒い物体にも思えたし、小さな何かがより集まっているようにも思える何かは、するすると、階段を降りてきていた。

(誰かいる!)

アニは背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
もし父親の助手ならば、見つかってしまうのはまずい。
今すぐ隠れるか、この塔から出なくてはならない。
頭の隅ではとるべき行動が明確に分かっているのに、なぜだろうか、体が、目線が、その何かが何なのかを知りたいと切望していた。
アニはソファーに座り込んだまま、ただただ何かが螺旋階段を降りてくるのを見つめる。
音もなく降りてくるそれは、腰まで伸びた漆黒の黒髪を持ち、服と同じ黒色の大きなガウンを羽織った、幽霊でもお化けでもなく、ただの人間だった。
ただ一つ、不可思議な点を挙げるとするならば、両目が包帯によって完全に覆われてしまっているということだろうか。
だが、目がまったく見えない状態にも関わらず、その黒い人はつまずきも、ふらつきもせずに足を運んでいた。
とうとう一階まで降りてきてしまった黒い人は、足元に散乱している本をまるで見えているかのように避けて、アニのいる方へと一歩、また一歩と向かってきていた。
口から飛び出てしまいそうな心臓を服の上から押さえつけながら、アニは興奮のままにその光景を刮目する。父親に内緒でこの塔へと来ているという軽い興奮状態は、アニの理性を少しばかり緩めてしまったのだろう。
黒い人はアニの座っているソファーの前まで来ると、ふと、その歩みを止めた。
そして小首をかしげて、包帯で見えないが目線をアニに合わせて、

「……おや? 誰かいるのかい?」

と、とても透き通った声で問いかけた。
その声は現実と幻想の狭間から這い出てきたような声で、まるで頭蓋骨に直接響いているようにも思えた。
アニはごくり、と生唾を飲み込んでから、

「ええ、いるわ」

と、思っていたより小さな声で答えた。
黒い人は包帯越しに視線を泳がせて、アニが座っているソファーの辺りをゆっくりと見回した後、先ほどとは反対側に小首を傾げて、

「……さて、この屋敷にお嬢さんはいただろうか……」

と、呟いた。
顔の上半分が包帯で覆われているため、表情から感情を読み取ることはできない。だが、アニには黒い人が面白がって尋ねているように思えた。

「お嬢さんじゃなくて、アニよ。私の名前、アニっていうの」
「アニ、か。……ふぅむ、どこかで聞いたことがあるような……」

アニが名前を口にすると、黒い人は先ほどと同じような表情のまま、思案するように右手を口元に寄せる。
その仕草に合わせてさらりと揺れる黒髪は、まるで絹糸のようにやわらかそうだ。

「お父様はこの屋敷の主だから、それでじゃないかしら」
「ほぅ、それはそれは……」

「ねぇ、」

納得したように、少しだけ口元をほころばせて頷く黒い人に、アニは尋ねる。

「……あなたは、だあれ?」

黒い人は、満面の笑みをこぼした。

「私の名前はレギナルト。……どうぞ、レギと呼んでくれ」

そう言って、丁寧に、そして華麗にお辞儀をして見せた。




レギは、もともとは父親と一緒に研究をしていたそうだ。だがある日、急に目が見えなくなってしまい、それ以来、この塔で相談役として住ませてもらっている、と言った。
昨日アニが見た灯りは、父親とレギが会っていたときのものだろうし、この塔にはアニが思っているような興味深いものは一つもない、とも、苦笑しながら言った。

「なあんだ、つまんない」

そう言ってしまいながら、アニは、そこまでつまらないわけではないと感じていることに気が付いた。
ソファーの横には真っ黒なレギが、本を撫でながら座っている。
目は見えていないはずなのに、アニの視線に気が付いたのか、「ん?」と、耳に心地いい声とともに振り向いてくれた。
アニはレギに対して、急速に親近感を抱き始めていた。
それはレギからする甘いような温かいような匂いのせいかもしれなかったし、忙しそうにしてアニのことなど二の次にしている父親とは違い、存在をちゃんと認めてくれているせいかもしれなかった。

「ね、レギは塔の中で毎日なにをしているの?」
「そうだね……、本を愛でているよ。こんなふうにね」

レギは背表紙を撫でながら答えた。
その愛でている手は陶器のように白く、浮き出た青白い血管が、レギの印象を儚いものにしていた。
よくよく観察してみると、真っ黒な服とガウンの下からのぞくレギの体には、贅肉というものが存在しているようには思えなかった。骨の上に遠慮がちに添えられた筋肉と脂肪は折り重なりあい、折れてしまいそうな、それでいて男性的な四肢を作り上げている。

「撫でるだけ?」

長い指先が表紙の端をするすると撫でるのを見つめながら、アニは尋ねる。

「……この通り、目が見えないからね」

レギは口元をやんわりゆるめて、くすくすと楽しそうに笑う。

「こんなふうに表紙を撫でて、一枚一枚ページをめくって、紙の感触を確かめて、たまに鼻を近づけてみたりして……。それくらいしか、私には本を楽しむ方法がないからね」

まだ目が見えていたころは、たくさんの本を読んだと。
アニの父親とよく図書館に行っては本を借りて読んでを繰り返し、どちらが先に制覇するかだなんて馬鹿なことで競い合ったと、懐かしむような口調で言った。
それほど本が好きだった人間が、ある日突然目が見えなくなってしまった時の失望感を、アニは想像してみた。
でもそれはただの空想で、まったく現実味を帯びなかった。
それでもアニは、大切なものを失った時の喪失感だけは理解できた。

「……私が読む、」

考えるよりも先に、口から言葉がこぼれ出していた。

「レギの代わりに、私が読んであげるわ。そうすれば、レギは本の内容を知ることができるでしょ? そうすれば、レギはまた本を読めることになるでしょ?」

アニは自分でも、どうしてそんなに必死になっているかがよく分からなかった。
だが、何かレギに対してしてあげたいと、強く感じていたのだ。

「……ふふ、それはとてもありがたいけど、その気持ちだけもらっておくよ」
「どうして?」
「アニ、君は……、外国語が読めるのかい?」

まったくもって、レギの言う通りであった。
うなだれるアニを慰めていると、レギは屋敷から漂ってくる匂いに気が付いた。
アニもそのおいしそうな匂いに気が付いたらしく、はっと顔を上げる。

「あ、いけない! レギ、今何時か分かる?」
「うーん……、残念なことに、分からないね。でも、もうすぐ昼食の時間だということは分かるよ」
「私、帰らなきゃ……」

そう言って、少し上目使いでレギを見た。
お腹は空いているものの、広いダイニングで食事をするのはアニ一人だけ。使用人は台所でしゃべりながら食べるだろうし、父親はいつ帰ってくるかも分からない。それに帰ってきたとしても、食事中には一言もしゃべろうとはしないのだ。

「……ね、レギはいつご飯を食べるの?」

レギはアニの意図を察したのか、少し困ったように笑って、

「毎日ここで食べているよ。私はあまり屋敷の使用人たちが好きではないからね。……それに、ニコ――父親にここへ来ていることが知れたら、きっと叱られるだろう? ここに来るなと言われているんじゃないのかい?」
「う」

アニは、父親が「塔には近づくな」と言ったときの、怒っているような顔を思い出して、少しぞっとした。

「だからね、アニ、一緒に食べることはできないんだ。すまないね」
「……、別に、レギが謝ることじゃ……」
「よしよし」

レギは再びうなだれてしまったアニの頭を撫でる。
しばらく大人しく撫でられていたアニだったが、尖らせていた唇をむりやり笑顔に変えると、すくっと立ち上がった。そして本棚に置きっぱなしにしていたランプを消し、マッチとともにスカートの下へとしまい込む。

「帰るのかい?」
「うん。でも、また来るからね!」
「……ふふ、父親や使用人に、見つからないように気をつけるんだよ」
「もちろんよ。……あ、レギ、今日のことは二人だけの秘密だからね。約束よ?」
「あぁ、もちろんだとも。アニも、日が暮れてからは危ないから、ここに来ようと思ってはいけないよ?」

アニとレギは小指をからませて、くすりと笑いあった。
そしてレギに見送られながら、アニは来たときと同じようにするりと扉をくぐり抜けて、誰にも見つからないように帰っていった。




アニを見送ってから、レギはその場を動くことはなかった。
日が暮れて空が紅に染まっても、星や月が輝きはじめても、膝の上の本をやさしくなでながら、口元を大きくゆがませて何かを待っていた。
しばらくして、塔の扉が開いた。

「レギナルト。今帰ったぞ」
「やあ、おかえり。ニコ」

大きなため息をつきながらレギの名を呼んだのは、アニの父親――ニコラウスであった。
持っていた荷物やローブを塔中央のデスク横に乱雑に置き、デスクチェアに全身を預けると、後から荷物を持って入ってきた女性を近くへ呼び寄せる。
そしてソファーに座ったままのレギを指し、

「彼がレギナルトだ。年は僕より少し下だったか? 盲目だが、知識は僕に引けを取らないだろう。いつもはこの塔の管理を任せている」

と、ぶっきらぼうに言い放った。
まだ二十歳そこそこであろう知的な雰囲気を持ち合わせた女性は、少し赤らんだ顔で、レギに大きくお辞儀をした。肩まで伸びた栗色の髪が、動作に合わせて慌ただしく動く。

「こ、こんばんは! ふふふつつか者ですが、よろしくお願いします!」
「こんばんは、お嬢さん」

レギはほほ笑んであいさつし、ニコラウスを包帯越しに見た。

「彼女――ヘンリエッテには、今日から私の助手として働いてもらうことになった。高等部は首席で卒業したらしいが、弟の教育費のために大学には行かず教師として働いていたそうだ。とても優秀な女性だ。……普段は私と一緒に街や研究会、呼ばれれば食事会にも連れていくが、日が暮れてからはここで勉強させようと思っている。…………レギナルト、手伝ってくれるか」
「もちろんだとも。……彼女が優秀なのは、言われなくとも分かるよ、ニコ」

その言葉に怪訝そうに眉をひそめたニコラウスだが、ヘンリエッテのお腹が小さくなったことで、

「まずは食事としようか」

と、屋敷へと導く。
さらに顔を赤くしたヘンリエッテだが、動こうとしないレギに気付いて、

「あ、あの、ニコラウス先生。レギナルトさんはご一緒しなくてもよろしいんですか?」

と、扉に手をかけたニコラウスに尋ねた。

「ん? あぁ……レギナルトは――」
「いいのだよ、ヘンリエッテ嬢。屋敷までの道は、私には危険だらけだからね。いつもここに届けてもらうのだよ」
「そ、そうなんですか? でも一人だと、せっかくのお食事もそっけなくなりませんか?」
「慣れているから…………、ふふ、だから心配せずに、たくさん食べてきなさい」

レギの言葉とお腹の虫の声が重なり、ヘンリエッテは耳まで赤くなってしまった。
やれやれとため息をついたニコラウスに連れられて、ヘンリエッテはダイニングへと向かう。二人を送り出した後、レギはふと、アニの言っていたことを思い出した。

「ふぅむ……、食事は一人では寂しい、か」

そんなことなど考えたこともなかったが、少しして、それもそうだと納得した。

「そうか……。そういえば私は、一人で食事をしたことなどなかったのか」

そう言って口元を歪めたレギは、二人が帰ってくるのを、本を愛でながらひっそりと待ち続けた。



【上 / /


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