【中編】 リュウキン (上)@souhyouuto


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幼馴染の明日香がいなくなってから早二週間――、
僕の世界は、音を立てて転がり出した。





まだ終わる気配を見せない夏は、教室中のやる気というものを根こそぎ奪い去っていた。クーラーのない教室は、じっとりと蒸し暑い。体中を流れるように覆っている水気が、汗なのか熱気なのかも分からない。外の木々ではセミが空っぽの腹を震わせて、学校中のすべての音をかき消そうと大合唱を決めこんでいる。

「――パンゲアは分裂し、いくつかの大陸に分かれていく。二酸化炭素濃度が――」

頬杖をつきながら、教室を見渡す。
一番後ろの席から見る教室は、どこか他人事のようにも思えて、自分が切り離されたような感覚を覚える。机にかじりついてせっせとノートを取っている生徒は見当たらない。授業よりも先のページを開いているか、僕と同じように頬杖をついてどこかを見つめているか、ひそひそと噂話に興じているかのいずれかだ。教室中の誰もが、この授業が一秒でも早く終わることを願っているというのに、開始からまだ二十分も経っていない。きっと時計のやる気も、どこかに消えうせたに違いない。
窓から入り込んでくる空気が、僕の頬をぬるりと撫でた。

「――最後の約二百万年は、従来は第四紀と呼ばれ、氷期と間氷期の規則的な――」

火照った脳内に、地学の先生の朗読が入り込んでくる。
すでに板書は諦めているから、もう教科書の何ページのどこをやっているのかさえ分からないが。

ふいに、ぽちゃん、とやけに大きな音が聞こえた。
最初は、誰かが閉めそこなった蛇口から水滴が落ちているのだと思っていたが、

(……、あれ、近くに水場なんてあったか……?)

この教室は旧校舎の一階、すべての校舎を繋いでいる渡り廊下から一番遠くにある。トイレは体育館へと続く一階の渡り廊下手前にしかない。手洗い場も、そのトイレの前と第二校舎へと続く渡り廊下に、申し訳程度に設置されているだけ。
つまり、この近くには、水が落ちるような所はないってことだ。

(誰かが水でも飲んだ……とか?)

この暑さだ。生徒がなにも言わずにこっそり水分を補給したとしても、先生も咎めないだろう。でも一番後ろの席だから分かる。誰も水なんて飲んでいない。
とぷん、と、また水音がした。
さっきよりもずっと近い場所から。
これは水滴が落ちる音じゃない。もっと何か重たいモノが、水面をかき混ぜたような……、そんな音だ。
この音は一体何だ?
みんなにも聞こえているのか、それとも、僕だけに聞こえているのか不安になってきて横の席に目を向ける。だが友人ことサイは、シャープペンシルを手にノートを取る体勢のままでぐうぐうと寝息を立てていた。ムダなところで器用な奴だとため息をついた瞬間、視界の隅で何かがゆらいだ。
今までで一番重たい水音ともに。





「なぁー、ソージぃ。何でそんな不機嫌なんだよー」
「別に」

白紙のままのルーズリーフを乱雑にクリアファイルに詰め込んで、荷物を片手に教室を出る。次の授業はなんだっただろうか。古典か、漢文か。どっちも嫌いな教科ではないが、こんな状況では一行も頭に入りそうにない。

「言っとっけど、あっちーのはオレのせいじゃねぇからな」
「分かってるよ、そんなこと」
「じゃーなんだよー」

そんなの、僕のほうが知りたい。
サイこと斉井(さいい)は、それはもう夢も見ないほどぐっすり寝ていて、水の音どころか授業も聞いていなかったらしい。他の奴にも訊ねてみたが、誰も水が落ちるような音なんて聞いてないという答えばかりだった。その会話の間にも、ぽちゃん、ぽちゃんと音がしているのにもかかわらず、だ。

(僕だけにしか聞こえないのか……)

心霊現象やらお化けやらは信じていないし、もしいたとしても、僕の周りに現れるとは思えない。平凡でなんの面白みもない日常をくり返している僕に、そんな世界は無縁だ。
じゃあこの音は何だろうか。
この僕にしか聞こえない音は。

(こう暑いと、頭もどうかしてくるよな……)

渡り廊下に出ると、ちりちりとした熱風が顔を撫でた。
第一校舎と第二校舎の間には、中庭がある。校舎や渡り廊下から見下ろせる中庭には、レンガ造りのステージがあって、文化祭のときには演劇部や美術部やらがパフォーマンスなんかをしたりする。
でも今は、誰も中庭に近づこうとしなかった。
それもそうだろう。
植木の類がまったくないせいで直接太陽光が降り注ぎ、熱せられたレンガからはようようと陽炎が立ち上がり、あそこにカラスでも降り立とうものなら一瞬で焼き鳥になるのではと思うほどだ。
吹きあがる熱風の中で、また、ちゃぷん、と音がした。
渡り廊下を抜けて第二校舎に入ると、冷房のすっとした冷気が僕を包む。背中にかいたじっとりとした汗が、歩くたびにひやりと冷めた。

「んじゃソージ、また昼にそっち行くわー」

手を軽く上げて、サイと一階の階段前で別れる。
サイとは違うクラスだが、地学やその他選択科目が一緒なのだ。
二階にあるクラスに戻り、廊下に置かれたロッカーに地学の教科書と資料集を押し込む。一番上に詰め込んだ体育館シューズが、内壁とこすれて嫌な音を出した。この高校の好きじゃないところは、第一校舎に冷房がないことと、ロッカーと購買部が小さいことだ。内扉に貼り付けられた予定表は、次の授業が古典であると告げていた。
すぐ後ろで、こぽこぽ、ちゃぷん、と音がした。
古典の薄っぺらい教科書と、それに反比例して分厚い資料集をロッカーから取り出して、閉めきられたクラスの扉を開ける。
同時に、僕にクラス中の視線が集まってくる。
背中越しでも分かる、肌を刺すちくちくとした視線。
興味と好奇心が入り混じった、ねっとりとした感情。
そんな中を無言で歩いて、一番後ろにある窓際の席に着く。傷防止のキャップが片方だけなくなっているせいで、変にがたついて座りづらい。
先生が教室に入ってきて、教卓に重たそうな本や資料を置く。付箋だらけの教科書を開きながら、しゃがれた声で起立を求める。教科書××××ページを開いてください。この前は××××まで訳しましたから、今日はその続きからですね。皆さん、きちんと予習はしてきましたか。
そんなありきたりな感じで、何事もなかったかのように授業が始まる。
けれど、授業なんてそっちのけで、クラス中がそわそわとしていた。後ろを向いて、横とくっついて、手紙を回して……、誰も咎めない教室内は、ウワサの捕食者であふれていた。
それは今に始まったことじゃない。

夏休みが終わる一週間ほど前――、
僕たちと同じ二年の女子生徒が、学校の屋上から飛び降り自殺をした。

女子生徒の名前は、槍田明日香(うつだあすか)。

早朝のことだ。
明日香が学校の屋上のフェンスを越えて下を覗いているのが、朝練でランニング中だった野球部によって発見された。誰もが戻るように呼び掛けるも、まるで聞こえていないかのように無表情だったという。
騒ぎを聞きつけた教職員が駆けつけたのだが、すでに彼女はコンクリートの地面へと叩きつけられてしまった後だった。すぐに病院に運ばれたものの、頭や全身を強く打ちつけていて、しばらくして息を引き取ってしまったそうだ。遺書や書置きなどは見つかっておらず、いじめを受けていた事実も、何かに悩んでいたという相談もなかったらしい。
地方新聞の二面に掲載され、そう長い期間ではないもののテレビ局や雑誌記者に取り上げられ……、後期の始業式が始まるまでには、根も葉もないウワサがすでに収拾がつかないほど広まってしまっていた。

そんなことがあってから二週間――、

(人が死んだのが、そんなにおもしろいんだろうか)

槍田明日香は一人称がボクの、ちょっと変わった子だった。僕とは幼稚園から高校までずっと一緒で、家まで近所という、いわゆる幼馴染。明日香に親しい女友達がいなかったため、もっとも親しいであろう僕に興味の的が集中しているのだ。
こいつならもっといろんなことを知っている、と。

(明日香はいなくなるまで、興味を持ってもらえなかったのか)

それじゃあ、今までいなかったみたいじゃないか。
存在しているって一体何なんだ。
どうして存在していることに理由がいるのだ。
後ろの席でガムをくちゃくちゃと噛む音がする。その音が嫌に耳に残る。くちゃくちゃ、ねちゃねちゃ。そうやって味がする間だけ噛み続けて、薄れてしまったら捨てるのだろう。道路にゴミのように吐き捨てるのだろう。胸の真ん中辺りが、ひどくもやもやする。気持ち悪いような、むかむかするような、面倒な感情が胃の下から湧きあがってくる。
もう寝てしまおうとしたとき、足元で、ぷくぷくと音がした。

ふいに目をやると、淡い魚影が床を泳いでいた。
ひらひらとした長い尾ひれをゆらしながら、大きな魚影が、あまり上手とはいえない泳ぎ方で僕の足元を泳いでいた。

「――っ!」

頭のてっぺんから足先まで、毛穴が開くのが分かった。それはあまりに唐突で、あまりに不可解だった。危うく投げつけそうになった教科書を力の限り握りしめて、机に押さえつける。
何だあれは何だあれは何だあれは。
見間違いじゃなければ、魚が床を泳いでいなかったか?
今にも張り裂けるか、この体から飛び出すかしそうな心臓を抑えつけながら、そっと教科書越しに床を見る。
魚影は尾ひれをゆらゆらさせながら、床を、黒板を、天井を、我が物顔で泳ぎ続けている。その動作とともに、ぽちゃん、とぷんと、あの音がする。
何度目をこすってみても、頬をつねってみても、消えろ消えろと念じてみても、南無阿弥陀仏と唱えてみても、深呼吸をしてみても、魚影は変わらずそこに存在していた。

(――こいつが、あの音の正体……?)

魚影が、ぽちゃんと床をはねた。

…………ありえない。
教室の床を魚が泳いでいてたまるものか。ていうか何だこのでかい魚は。影だけとか何なんだ。
どう考えたってありえないのに、目の前の光景は現実だった。もう怖さとか恐ろしさとかを通りこして、腹が立ってきた。水の音と同じく、僕以外にはこの魚影は見えていないらしい。魚影を目尻で追っている僕を、古典の先生がいぶかしげな表情でちらちらと見ている。さっき教科書を落としそうになったからだろうか、話をやめて僕を盗み見ている生徒も何人かいる。
これ以上好奇の的になってたまるかと、今度こそ机に突っ伏した。





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